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スモレンスクの戦い (1941年) : ウィキペディア日本語版 | スモレンスクの戦い (1941年)[すもれんすくのたたかい]
スモレンスクの戦い (1941年)とは、独ソ戦中にドイツ中央軍集団所属の第2装甲軍(司令官ハインツ・グデーリアン)、第3装甲軍(ヘルマン・ホト)らがソビエト赤軍4個方面軍を包囲した戦いのことである。 ソビエト赤軍は西部戦線(司令官セミョーン・チモシェンコ)、ソビエト赤軍予備軍(司令官ゲオルギー・ジューコフ)、中央戦線(司令官フョードル・クズネツォフ)、ブリャンスク戦線(アンドレイ・エリョーメンコ)が戦いに参加、最終的にはソビエト第16軍、第19軍、第20軍がスモレンスク南方で包囲され、第19軍の大部分のみ包囲から脱出することができた。包囲から逃れた大勢のソビエト赤軍将兵がいたことから、ドイツ総統アドルフ・ヒトラーはソビエト連邦を撃破する第一手段である包囲作戦を中止、ソ連に経済損失を負わせることへ集中するよう命令した。 ==背景== 7月3日、(この日はヨシフ・スターリンがこの戦いをナチス・ドイツの侵入への反撃、大祖国戦争と呼んだ日でもある。)ドイツ軍の歩兵部隊が装甲部隊へ合流、東への進撃を再開した。主な装甲部隊は1週間停止しており、攻撃が再開された7月上旬は突然の暴風雨のために道が泥濘化しており、軍を進めることには困難が伴う状況で、数時間停止することもあった。その間に赤軍は防衛を固め、多くの橋が爆破された。また、赤軍はドイツ軍の進撃を鈍らせるため多くの地雷を敷設、そのため、ドイツ軍は極めて限られた道を進撃路とせざるを得なかった。 この遅延はソビエト赤軍装甲部隊による大規模な反撃を組織化する時間を与えることとなった。
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